覚 書
―STREAM(存在の流れ)―
何年も前から変化し続ける波打ち際で、イーゼルを立てて絵を描けないかと考えていた。
波打ち際は、地・水・火・風・空が集まっている場所だ。
何をどう描けばいいのか、さっぱり手がかりが掴めなかった。
とにかく、行動するしかないので、描きながら考える事にした。
波打ち際と言う、刻々と変化する自然の流れと言う楽譜の中で、演奏家が演奏する気持ちで描いてみることにした。
2~3時間で体がへとへとになるので、そこまで一気に描き切る事にしている。
風で吹き飛ばされたり砂だらけになったり波しぶきがかかったり、かなり過酷な仕事だ。
その後、アトリエで時間をかけて、余分なものを消去し平面化していく作業をする。
私達は、宇宙に存在し、世界は美に満ちている。
そのことにはっきり気づいたのが、皮肉な事に2011年3月11日の、あの災害の時だった。
不幸で心が痛む出来事だが、あの時一瞬、あるがままの世界が見えた。
描く事は、とらわれを捨てる事でもある。
覚 書
―ラスコーの壁画を見て―
数万年前に描かれたと言う、ラスコーの壁画(レプリカ)を上野の国立科学博物館で見た。
私達人類の祖先であるホモサピエンスは、20万年前くらいに生まれていたそうだ。
壁画は、動物の生き生きとした描写と、抽象的な図形があり、何の目的で描かれたのか、まだはっきりとはわからないらしい。
ただ、抽象も具象もすでに原初からすべて揃っていたことに、驚きを覚えた。
また、描く方法―木炭で描く、顔料を擦り付ける、吹き付ける、棒で引っかく等、やっている事は今となんら変わらない。
つまり、絵画は進歩するものではなく、時代に応じて変化していくものなのだろう。
そして、現場のフィールドワークと、知的な想像力による抽象作用の両方が、必要なのだと気付かされた。
哲学、宗教、芸術、科学、経済等はホモサピエンスによる産物かもしれないが、自然の存在の流れや美は、ホモサピエンス以前から存在する。
すぐれた画家の絵は、今と言う存在の流れの中に、すべてがある事を示す。
そこに絵画の普遍性と源流があると思う。
2017年10月 Oギャラリー
住谷 重光
覚 書
― 循環・共生・流れ ―
絵画の時代は終わったと言われてから、久しい時が経ちました。
今や何でもありの、サブカルチャー全盛の時代となっています。
それでも、絵画は脈々と生き続けています。
むしろ、絵画の全貌を見渡せる位置に、私達はいます。
西行の和歌における、宗祇の蓮歌における、雪舟の絵における、利久が茶における、その貫通するものは一つなり(中略)
芭蕉
坂本繁二郎は自我を消去して見えてくる存在を描き続けました。
モランディは「現実こそ抽象である」と言いました。
絵画には、宇宙と素通しの感覚、立ち位置が大切です。
自然を描く意味もそこにあると思います。
今回のモティーフは主に松林です。
樹を描き続けていますと、水の循環、共生、流れが見えてきます。
自然の流れを、観念的にならずに描き続けていきたいと思います。
2016年10月 藤屋画廊
住谷重光
覚 書
―光のフォルム―
午前中の光の美しい時は、自然光の中で直接、現場で描いている。
昼からはアトリエに行って主に抽象の仕事をする。
床をきれいに雑巾がけすると、空気まできれいになる気がするので、出来るだけそうしている。
窓を開けているので、トンボや蝶が遊びにやってくる。時折、蜂もやってくる。刺されて死んだ人もいるとの事で、不安と恐怖で、殺虫剤で殺した。
しかし、のんびりと優雅に部屋を観察しながら飛んでいる様子を見ると、僕の過剰防衛の気がして、悪いことをして申し訳なかったと思う。
まあ、刺されてから考えれば良いかと思い直し、放っておくことにしたが、その後、刺された事はない。
そう言えば、野外で描いている時も、自分の中から人間の気配が消えていく様で、小鳥達がすぐ、近くまで来る時がある。
日本は自然に恵まれ、壊れているとはいえ、四季のある美しい国だ。
様々な文化が流れつき、息づく、まるで博物館のような場所だ。
自我を消去しながら描くことで、宇宙と地つづきの自然の流れが実感出来る事を願っている。
2015.年10月 Oギャラリー
住谷 重光
覚 書
―海からの光―
大磯の光は美しい。
湘南平、高麗山や相模湾に囲まれ、こじんまりした中にすべてが揃っている地形と風土の町です。
午前中は許す限り、野外に出て、現場で描くようにしています。
昼からはアトリエで描いています。
主に桜の樹をモティーフに、説明的なもの、余分なものを消去して、抽象的な絵を描いています。
日々小鳥たちや草木と対話していると、実にいろいろな事を彼らは教えてくれます。
循環や共生といった自然の流れの中で、調和・バランス・リズムと言った、美の世界に、私達は生きている事を実感します。
私は自己主張の絵を描くのではなく、むしろ自我を消していくことで浮かびあがる、存在の美を描きたいのです。
ギャラリーさざれ石では現場で描いた絵を、鴫立庵ではアトリエで描いた抽象作品を展示します。
なお、鴫立庵の空間には、丸田秀三氏の作品がどうしても必要でしたので、お願いをしてコラボレーションという形をとらせていただきました。
ご高覧頂けましたら幸いです。
2015年4月 ギャラリーさざれ石
住谷重光
覚 書
―原初の風景―
時折、朝日の出る前に浜辺を散歩する。
太陽の昇る10分前後は、生まれたての太陽が初々しく、とても美しい。
だいたい午前中は、自然の光の中、現場で描く。
音楽家が楽器を演奏する様に、呼吸する様に筆を置いていく。
うまくいっている時は、対象を描くという意識は消え、
自然と一体になり、五感で見る事と描く事は同時に進んでいく。
自分の中から人間の気配も次第に消え、気がつけば小鳥達が近くに寄ってくる時もある。
午後からは、アトリエで自然の流れを基に、リズム、バランス、奥行き等、様々な方向から余分なものを消去する
様に描く。
それでも、かすかに自然の流れの痕跡は残っていく。
遠くにある宇宙に思いを馳せるというのではなく、自分を消去しても、かすかに残る自分の立ち位置が、はっきりしてくると、
今、この瞬間が宇宙に存在するという実感も鮮明になってくる。
出来るだけ自然の流れに促した暮らしを大切にしたい。
2014年10月 Oギャラリー
住谷重光